政情不安問題の根深さ〜ウクライナの一断面

 
「ウクライナの歴史における悲劇」と題して、2009年初頭に発表 された意見広告がある。厳密には筆者が誰かは明記されていないが、現ウクライナ大統領ユーシチェンコの写真と在日ウクライナ大使館の明記があるため、ウク ライナの公式声明と見て良いだろう。さて、その内容であるが、1932年〜1933年にかけてのソ連によるウクライナへの収奪の結果おこったウクライナ側 国民の大量餓死「ホロドモール」についての記述である。
 すなわち、当時ウクライナは「・・まだ自らの国家を持たなかった・・」が、「・・スターリンの全体主義政権により実行されたジェノサイド(集団虐殺)の 犠牲とな」ったと明言している。「・・ウクライナとウクライナ民族が大半を占める北コーカサス地方において、1932年ー1933年のホロドモールは数百 万の人々を餓死に至らしめ、その3分の1は子供であった・・」、「この悲劇はウクライナの農民を屈服させ、ウクライナの民族的な基礎を破壊する目的で詳細 に計画された行動の結果として起きたもの・・」と断言している。さらに「・・ウクライナの境界に沿って封鎖網が敷かれ、秘密警察や警察の部隊が監視を行っ て」、「・・完全に孤立させ、飢餓ゲットーにする事が目標とされ」、「スターリン政権のこうした徹底的な行動計画により、数百万の人々が飢えで命を落と し」たという。
 そのころドイツでは、総選挙でナチ党が第一党となり、政権獲得は目前であるとされていた。そしてウクライナで人々が「集団虐殺」されていた最中に、ナチ 党は政権を獲得したのである。
 ウクライナが当時、ソ連の一地方として組み込まれていた事は事実である。そしてウクライナは農業を基幹としており、ソ連の穀物庫でもあった。従ってウク ライナ民族の大半は農民であったわけである。「その頃、農民はソビエト・ウクライナの全人口の約8割を占めていた・・」のである。そして、「スターリン政 権」は「ウクライナの民族的アイデンティティの基礎を破壊し、民族自決の願いを抑圧するため」に人為的に飢餓をひきおこしたと述べている。なぜなら「当 時、大規模な飢饉が旧ソ連邦の他の地域、すなわちボルガ川流域やカザフスタンでも発生し、無数の命が失われたことが知られてい」るが、「・・ウクライナの ホロドモールとボルガ地域やカザフスタンで起きた飢餓とは異なる性質のものであった・・」という。「これらの地域では・・飢餓は・・社会経済的な要因に よって引き起こされ」たが、ウクライナの場合は「政治的なもの」だったのである。
 「ウクライナ人の国家再生の運動を率いていたのは知識階級であり、彼らは人々から、中でもまずは農民から力を得ていた」からこそ、「・・独裁者はウクラ イナの農民を攻撃の対象と位置づけた」のである。
 驚くべきことは、この公式声明には、ソ連によるウクライナ人への弾圧は「・・スターリンのウクライナへの攻撃が頂点に達したのがホロドモールであり、数 百万の犠牲者を出す悲劇となった」、「・・人為的なホロドモール」と明言されているが、1941年のナチスドイツによるウクライナ侵攻とそれに伴う支配に は一言も言及されていないことである。
 1940年代当時は様々な民族が国民国家を目指すナショナリズムの時代でもあり、言語を同じくする集団が少数民族として独立し国家を樹立したいという欲 求は当然のことであり、独立に際してヨーロッパ有数の強国ドイツに頼ろうとする考えもあった。また、独立国の内部では先鋭化した民族主義団体が政権奪取を 目論んで自国政府に圧力をかけるためにドイツの力をあてにする場合、またはドイツに負けた自国政府の弱さに見切りを付け、かわってドイツの支配下で上昇の 機会を得ようという場合もあった。
 どの民族や国民にとっても、基本的には何者にも脅かされない安定した生活を求める事は自然である。フランスを降伏させ、イギリスを黙らせ、ソ連を追いつ めていた当時のドイツがそれを保証してくれる最強国に見えたのも不思議はないであろう。
 そして、ウクライナはかつてオーストリア=ハンガリー帝国の一部であったが、第1次世界大戦後にソ連の侵略をうけ、第2次世界大戦時には、1939年8 月の独ソ協定により改めてソ連の統治下におかれた。しかし、先述した公式声明の通り、住民の反ソ感情は強く、1941年に独ソ戦が開始されるとソ連軍はウ クライナを放棄して後退、住民はドイツ軍をソ連からの解放者として歓迎した。
 ドイツが占領したウクライナは、当初「帝国委員管区ウクライナ」となり、東プロイセン大管区指導者エーリヒ=コッホ(東部占領地区省次官を兼任)の支配 下におかれた。しかし、コッホは古参党員というだけでヒトラー側近の位置を占めて大管区指導者となったので、帝国外の占領地行政を運営できるはずもなかっ た。しかも彼はSSが特別行動隊をウクライナでも活動させていることを非難し、占領ソ連地区におけるSSの政策とことごとく衝突したため、やむを得ずヒト ラーはウクライナをポーランド総督府管区に組み入れることにした。
 ヒムラーはドイツ民族性強化帝国委員として、「総督府併合ウクライナ」を「ガリツィア」と呼ぶべきだと主張し、それがヒトラーにより認められたので、 ポーランド総督府管区「ガリツィア」の知事にオットー=ヴェヒター博士(SS少将、のちSS中将兼警察中将)を任名した。ヴェヒターSS少将は、ポーラン ド総督府管区を担当する高級SS・警察指導者「オスト」の所属でもあった。
 1943年3月、ヴェヒターSS少将はガリツィア警察連隊の編制を発案し、7万人にのぼるウクライナ住民がこれに志願した。当初は5個連隊の予定であっ たが、SS本部長ベルガーSS大将は、これらウクライナ義勇兵による武装SSの師団の編制を提案。こうして「ウクライナ第1」師団が誕生した。この地区の 住民により編成された「ウクライナ第1」師団は「ガリツィエン」とも呼ばれる。 
 しかし、全員が武装SSに編入されたのではなかった。「ウクライナ第1」師団は、1943年には12634人、1944年には15299人程度の人数で あった。その他の志願者は警察連隊として編制された。この警察連隊はシューマとして特別行動隊に編入される場合や対パルチザン作戦に投入されることが多 かった。
 「ウクライナ第1」師団の名称は以下の通りに変化した。
編成当初は「SS義勇兵師団ガリツィエン」
1943年10月22日〜1944年6月27日まで「第14ガリツィアSS義勇兵師団」、
1944年6月27日〜11月12日「第14SS所属武装鄭弾兵師団ガリツィア第1」
1944年11月12日〜1945年4月25日「第14SS所属武装鄭弾兵師団ウクライナ第1」
1945年5月8日まで「ウクライナ国民軍第1ウクライナ師団」
 師団長は1943年6月〜11月19日までヴァルター=シマーナSS少将(兼武装SS少将、のち高級SS・警察指導者「ギリシア」)、
1943年11月20日〜1945年4月27日までフリッツ=フライタークSS准将(のちSS少将兼警察・武装SS少将)、
1945年5月8日までパブロ=シャンドルク少将(ウクライナ国民軍)であった。
 師団はポーランド総督府領のデビカ付近で訓練をうけ、1944年6月にロヴノとヤロスラフの中間点であるブロディに投入された。ソ連軍がポーランド総督 府領内に侵入するのを防ぐためであったが、逆に包囲され、師団は14000人中3000人しか脱出できず、ほぼ全滅した。
 すぐさまガリツィア警察連隊から人員が補充されたが、いずれにせよまったくの訓練不足であった。正規軍相手では勝つ見込みがないので、同師団は1944 年秋、スロヴァキアで発生した暴動を鎮圧するため派遣された。1945年1月にはユーゴスラヴィアへとおくられたが、すでにドイツ軍は各地で敗北を重ねて おり、ユーゴからも撤退がはじまっていた。1945年4月初頭には、陸軍第2装甲軍の指揮下にはいり、シュタイヤーマルクをへてグラーツ付近へ後退した。 ここで、ウクライナ国民軍に編制替えとなり、師団長フライタークSS少将は自決した。師団はソ連軍をさけて、5月8日、グラーツ付近のラートシュタットで イギリス軍に降伏した。
 このようにナチ占領下でもウクライナは完全な独立国家となったことなどなく、WSS義勇兵やシューマとして動員され、特別行動隊の手先としてユダヤ人や 反独分子虐殺の下請けをさせられていたとしか見えないのだが、なぜかこの1941年〜1945年の間については、公式声明では一切触れられていない。
 同様に、第一次世界大戦後にソ連に組み込まれ、第二次世界大戦中にソ連にかわりナチスドイツにより占領された国としてエストニアの例がある。
 エストニアは1940年、ソ連に併合された。その後の急激な共産化に伴い、私有財産の否定などが進行し、ソ連側による「人民の敵」さがしが横行した。ソ 連内務人民委員部の作成したリストにより公式には1年で2000人が処刑されたが、労働キャンプ送りなどで、およそ59000人が行方不明となったとい う。2009年現在でもエストニアの人口は約130万人であるから、この当時のソ連による被害者数は大変なものである。故に彼等はソ連併合下の1940年 7月〜1941年7月の間を「恐怖の年」と呼び、ウクライナと同様、ドイツをソ連からの解放者と捉えた。しかし彼等は1942年にエストニア義勇軍として ドイツ側に立つにあたって以下の8条件を提示した。
 「1、我々はSS義勇軍ではなくエストニア軍の創設を望む。2、編成及び訓練はエス
トニアで行う。3、エストニア部隊は祖国エストニア付近での従軍はしない。 4、エストニア師団はエストニア人将校が指揮する。5、エストニア師団はOKWの管轄下におく。6、エストニア人がドイツ軍にて勤務した後は自分の望む、 エストニアに帰る自由が与えられる。7、ドイツ側は全ての武器弾薬・装備を提供する。8、ドイツ側は訓練を担当し新型武器の操作法を教える。」
 これらのことからエストニア人が武装SS(ドイツ軍)に参加した 理由は一定期間の人的資源の提供の見返りに軍事技術的な援助を期待していたと考えられる。武装SSと共にソ連を撃破するというより、自国を強化して再び侵 略を受けないような体制を作ろうと考えたのであろう。
 現在のエストニア政府がウクライナ政府のような公式声明を出した かどうかは寡聞にして不明だが、ウクライナより先にEUに加盟している。そしてウクライナもまた現在、NATO加盟・EU加盟を切望している所である。そ のウクライナに対しては、ロシアが圧力を強めつつ有る。しかも、ウクライナ国内では大統領と首相がそれぞれEUとロシアを後ろ楯にして権力争いをつづけて いる。この構図にはナチスドイツの力でソ連から自由になろうとした当時のウクライナが重なって見える。故に現在のウクライナ政府が、ナチスドイツによる かっての占領について、仮に被害がなかったのだとしても、一切言及せず、ひたすらソ連を非難することは、驚くべき事だが当然の事でもある。
 現在のEUはハッキリ言えば「ユダヤ人に配慮したナチス」であ る。SSの「Generalplan-Ost」を引き合いに出すまでもなく、EUの拡大する方向が東部であることは、西側には海しかないから、という単純 な地理的状況による問題以前に、12世紀以降のエルベ川東岸への植民運動以来、常に東を目指してきたドイツのDNAの為せる業である。そして「不凍港」を もとめて南下するロシアとウクライナを舞台に衝突する宿命にもある。

つい先日、89歳の元収容所看守が「3万人のユダヤ人」殺害に関与した罪でアメリカからドイツに移送、逮捕された。この老人もウクライナ出身で・・あだ名 は「イワン雷帝」とか・・ここにもウクライナとロシアの組み合わせが連鎖しており、ポーランドに建設された絶滅収容所ゾビボールの看守だった。そう、ナチ ス関連犯罪には時効がない、ナチス戦犯は草の根わけても探し出す、と言うのは有名な話である。そして我々はすでに知っているはずである・・移送、逮捕、草 の根分けても探し出す・・その対象が違っていただけの時代があった事を。

(本稿は2014年2月のウクライナ政変に鑑み、 2009年8月に某誌に掲載された ものを改題しました。筆者)